訪問診療に出かけるとき、私が持ち歩いているものの一つに、歌詞をまとめたファイルがあります。
「茶摘」「海」「夏の思い出」など、懐かしい歌の数々。患者さんと一緒に歌う時間は、私の臨床で取り入れている口腔機能への働きかけの一つです。
歌には、楽しく口を動かせることに加えて、いつも心を動かされる場面があります。
普段は声をかけても応えない方が、歌詞を見ると、思わず声を出される。認知機能が低下し、訓練の説明を理解していただくことが難しい方でも、歌なら一緒に参加してくださることがある。
そして、上手に歌えたときも、うまく歌えなかったときも、最後には笑顔になっている。
その表情を見るたびに、私は嬉しくなります。この時間には、単に口の筋肉を動かすことを超えた、大きな意味があるのではないかと感じています。
口の訓練は続けられることが大切
今回ご紹介するのは、岡山大学の研究グループによる、口腔体操とフレイルに関する研究です。
研究では、プレフレイルまたはフレイルに該当する60歳以上の方を対象に、首や唇、舌などを動かす口腔体操を3か月間行い、実施頻度による違いを調べました。解析対象は58人でした。
頻度は、「1日3回・毎日」「1日3回・週3日」「1日1回・毎日」「1日1回・週3日」の4通りです。
全体として、開始時から3か月後にかけて、フレイルと口腔機能低下の該当項目数に改善がみられました。また、「1日3回・週3日」の群で実施率が最も高かったと報告されています。
ただし、全員が口腔体操を行っており、行わなかった人との比較はありません。改善がすべて体操によるものだと断定することも、「週3日が誰にとっても最適」と結論づけることもできません。
それでも、私がこの研究から受け取った大切な視点があります。
訓練は、内容と同じように、その人の生活の中で続けられる形を考えることが大切だということです。
「訓練しましょう」では動かなかった口が、歌で動き出す
口腔機能訓練では、唇を閉じたり、舌を動かしたり、声を出したりと、目的に応じた働きかけを行います。
ただ、「口を大きく開けてください」「舌を動かしてください」という説明が、いつでも伝わるとは限りません。
認知機能の低下がある方にとっては、何のためにするのか、どう動かすのかがわかりにくいこともあるでしょう。説明は理解できても、その日の気分や体調によって、気が進まないこともあります。
そんなとき、歌詞のファイルを開くと、場の空気が変わることがあります。
見覚えのある言葉を目で追い、声が出る。こちらの歌声に合わせて、口が動き始める。
もちろん、どなたにも同じ反応がみられるわけではありません。それでも、こうした場面は、その方が参加できる入り口を探すことの大切さを教えてくれます。
「できない」と見えていたことも、働きかけ方が変わると、できる部分が見つかることがあるのです。
歌うことは、誰かと時間を共有すること
歌うときには、息を吐いて声を出し、言葉に合わせて唇や舌を動かします。口や声を使う機会をつくるという点で、歌は身近な方法の一つです。
ただし、歌うことが、必要な筋力訓練や嚥下訓練のすべてを代わりに担うわけではありません。歌えたことだけで、安全に食べられる、飲み込めると判断することもできません。
そのうえで、私が歌の時間に感じている価値は、動かした筋肉や発声の回数だけでは表しきれません。
同じ歌詞を見ながら、一緒に声を出す。
相手の声に耳を傾ける。
歌い終わって、顔を見合わせる。
そこには、人と時間を共有することがあります。
普段の呼びかけへの返事がなくても、一緒に歌える。そのとき私は、その方と関わるための別の入り口が開いたように感じます。
上手に歌えなくても、最後の笑顔に意味がある
歌の時間を、正しくできたかどうかだけで評価してしまうと、見落としてしまうものがあります。
音程が合わなくても、歌詞が途中でわからなくなっても、声が小さくても、その方が参加し、最後に笑顔を見せてくださる。そのこと自体を、私は大切にしたいと思っています。
誰かと一緒に過ごせたこと。
自分の声が、その場に加わったこと。
楽しいと感じられる時間があったこと。
その方の内側で何が起きているのかを、私たちがすべて知ることはできません。それでも、その笑顔から受け取れるものはあります。
そして、笑顔になるのは患者さんだけではありません。一緒に歌っている私も嬉しくなる。介護するご家族と、患者さんの表情を喜び合えることもあります。
口の訓練を通じて、その場にいる人同士の関わりが生まれる。
これは、臨床で大切にしたい意味の一つだと感じています。
「またやってもいい」と思える時間を
今回の論文は歌唱を検証した研究ではなく、認知機能が低下した要介護の方への効果を直接示したものでもありません。歌によって認知機能や嚥下機能が改善する、とこの研究から結論づけることはできません。
研究で示された口腔体操の知見と、私が臨床で経験している歌の時間は、分けて考える必要があります。
その一方で、「続けられる方法を考える」という視点は、訪問診療にも通じると感じます。
必要性を説明するだけでは、訓練が生活に根づかないことがあります。その方にとって、負担が大きすぎず、参加しやすく、「またやってもいい」と思える時間になっているか。そこを考えることも、私たちの役割ではないでしょうか。
歌が好きな方なら、なじみのある一曲の、一番だけでもよいと思います。大きな声や高い音を求めず、その日の体調に合わせて、無理なく終えられる範囲で。息苦しさや強い疲れがあるときには、休むことを優先します。
歌うことを望まない方には、その方が心地よく参加できる別の方法を探します。大切なのは、その人に合う関わり方を見つけることだからです。
「食べる幸せ」を支える時間として
食べることには、口や舌の働きだけでなく、気持ちや、人との関わりも重なっています。
だからこそ、「食べる幸せ」を支える臨床でも、機能の数値とともに、その方がどんな表情で過ごしているかを大切にしたいと思っています。
歌詞を見て、思わず出た声。
一緒に歌い終えたあとの笑顔。
その一つひとつが、すぐに食べる力の改善につながったと証明できるわけではありません。それでも、その方の今の暮らしを豊かにする、大切な時間にはなり得ます。
今日も歌詞のファイルを持って、訪問に向かいます。
上手に歌えるかどうかよりも、一緒に過ごした時間のあとに、笑顔が残ることを願いながら。
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参考文献:Takeuchi N, et al. Effects of an oral exercise intervention on pre-frailty or frailty in older people: a randomized clinical trial. Communications Medicine. 2026;6:96.



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