食事の前に、台所から出汁の香りが漂ってくる。それだけで「おいしそう」と感じ、口の中に唾液が出てきた経験はないでしょうか。
食べることは、歯や舌を動かすことだけで始まるわけではありません。食べ物を見て、香りを感じ、「食べたい」と思う。その準備もまた、食べる営みの一部です。
私はアロマセラピーのインストラクター資格を取得して17年になります。訪問歯科ではアロママッサージで緊張を緩め、外来ではディフューザーを使って歯科医院特有のにおいを和らげ、患者さんに少しでもリラックスしていただけるよう取り組んだことがあります。オレンジの香りで表情が明るくなる方や、コショウの香りをきっかけに食べ物への関心が高まる方にも出会いました。
もちろん、こうした経験だけで「香りが口腔機能を改善する」とは言えません。そこで今回は、香りと唾液、嚥下、歯ぎしりに関する研究を読みながら、訪問歯科での可能性を考えてみます。
⸻
食べる前から、口は準備を始めている
食べ物の香りは、鼻から吸い込むときだけでなく、噛んでいる間に口から鼻へ抜けるときにも感じます。後者は、私たちが「味わい」と呼ぶものを形づくる大切な感覚です。
以前紹介した出汁の研究も、香りや風味と食べる動作の関係を考えるきっかけになります。ただし、出汁を飲む研究では香りに加えて味や温度なども働きます。香りだけの効果と、食べ物を味わうこと全体の効果は分けて考える必要があります。
それでも、食事の前に好きな料理の香りを感じることには意味がありそうです。訪問先で「何を食べたいですか」と尋ねるだけでなく、「どんな料理の香りが好きでしたか」と聞いてみる。香りは、その人の食の記憶に近づく手がかりにもなると思います。
⸻
香りで唾液が増える可能性
唾液は、食べ物をまとめ、飲み込みやすくするために欠かせません。口が乾いていると、食べることそのものが負担になります。
健康な成人10人を対象にした研究では、パイナップルの香りがある条件で、香りのない条件より唾液量が多くなりました。一方、ストレスの指標として測定した唾液中コルチゾールには、明確な差がありませんでした。
ここから言えるのは、この実験条件では香りと唾液量の増加が関連したということです。「リラックスしたから唾液が増えた」とまでは断定できません。また、対象は健康な若い成人であり、口腔乾燥のある高齢者にも同じ結果が得られるかは、さらに検討が必要です。
⸻
コショウの香りと「飲み込む」反応
私が臨床で関心を持ってきたコショウの香りには、嚥下に関する研究もあります。脳卒中後の高齢者を対象としたランダム化試験では、ブラックペッパーオイルによる嗅覚刺激で、嚥下反射が起こるまでの時間が短くなるなどの結果が報告されました。
これは、香りが「食べたい気持ち」だけでなく、飲み込む反応にも関わるかもしれないという興味深い知見です。ただし、嚥下反射の測定値が改善したことと、安全に食べられる食品が増えたことは同じではありません。 誤嚥の有無や食形態は、これまでどおり一人ひとり評価する必要があります。
⸻
緊張や睡眠中の歯ぎしりとの関係
香りが口に及ぼす影響は、食事の場面に限りません。
睡眠時ブラキシズムのある若い成人26人を対象とした研究では、ラベンダーの香りを用いた条件で、対照条件などに比べて睡眠中の歯ぎしりの回数が減少しました。興味深い結果ですが、これだけでラベンダーを歯ぎしりの治療法と位置づけることはできません。
また、健康な若い男性16人を対象とした研究では、精油の香りを使った後に気分の指標が改善し、条件によって唾液中の免疫に関わる指標やコルチゾールにも変化が見られました。ただし、唾液の指標が変わったことを、そのまま感染予防効果と解釈することはできません。
これらの研究は、香りと緊張、睡眠、口腔内の状態を一緒に考える視点を与えてくれます。
⸻
訪問診療では「その人にとって心地よい」が出発点
香りの感じ方は、人によって大きく違います。私には爽やかな香りでも、患者さんには苦手な香りかもしれません。思い出を呼び起こすこともあれば、不快な経験を思い出させることもあります。
訪問診療で生かすなら、まずはご本人の好みを聞き、表情や呼吸、落ち着き方を見ながら、ごく控えめに試すことから始めたいと思います。認知症などで好みを言葉にしにくい方なら、ご家族や介護者から普段の様子を聞くことも大切です。
精油を使う場合は、皮膚刺激やアレルギーにも注意が必要です。マッサージでは適切な希釈と皮膚の状態の確認が欠かせません。香りを嫌がる、咳が出る、気分が悪そうになるといった反応があれば、すぐにやめます。精油の一般的な使用方法にも、吸入と希釈した皮膚への使用が挙げられています。
香りは、口腔ケアや嚥下評価に取って代わるものではありません。それでも、緊張して口を開けにくい方、食への関心が薄れている方、懐かしい食事を思い出したい方にとって、安心して「食べる」ための小さな入口になるかもしれません。
17年前に学んだアロマセラピーを、今の訪問歯科の視点からもう一度学び直したいと思っています。どの香りを、誰に、どのような場面で使うとよいのか。そして、使わないほうがよいのはどんなときか。研究と患者さんの反応の両方を確かめながら、その人の「食べる幸せ」につながる使い方を探していきたいです。
【参考文献】
- 野原佳織ほか「香り刺激による唾液量と唾液中コルチゾール濃度に関する検討」『人間工学』57巻3号、2021年。
- 大川穣ほか「嗅覚刺激による睡眠時ブラキシズムの抑制」『日本顎口腔機能学会雑誌』。
- 枝伸彦ほか「エッセンシャルオイルによる香り刺激が口腔内免疫能に及ぼす影響についての生理心理学的研究」『アロマテラピー学雑誌』20巻3号、2019年。
- Ebihara ほか「A randomized trial of olfactory stimulation using black pepper oil in older people with swallowing dysfunction」2006年。



コメントを残す