もうずいぶん前になりますが、訪問先で出会ったおじいさんから、ある動画を見せていただいたことがあります。
そこに映っていたのは、盆踊りを踊る一人の高齢男性。
音楽に合わせた華麗なステップ。
しなやかな手の動き。
どう見ても、長年踊り続けてきた熟練者です。
ところが、その動画を見せてくださったおじいさんから聞いた話に、私は驚きました。
「この人、普段は杖をついて歩いているんだよ」
私は思わず、もう一度動画を見直しました。
杖をついて歩いている人の動きには、とても見えません。
もちろん、動画だけからその方の身体機能について判断することはできません。
それでも私は、この出来事がずっと心に残っています。
普段の生活ではうまく引き出されていない身体の動きが、音楽が流れ、盆踊りという長年繰り返してきたものに出会った瞬間、まるで身体が思い出したかのように現れる。
人の身体には、私たちが外から見ている以上のものが残っているのではないか。
そんなことを考えさせられた出来事でした。
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人は「緑」を目だけで見ているわけではない
先日、とても興味深い総説を読みました。
飯島健太郎氏の「人の健康と緑の知覚」という論文です。
この論文では、植物や緑地が人間の心や身体に与える影響について、多くの先行研究が紹介されています。
たとえば、人工的なブロック塀を見る場合と生垣を見る場合では、生垣を見ているときの方がリラックスした状態を示す脳波が多かったという研究があります。
また、芝生地やラベンダー畑では血圧の下降やストレス指標の低下傾向が報告され、植物のある環境が人の心理・生理の両面に働きかける可能性が示されています。
でも、私がこの論文で特に興味を持ったのは、
人間は自然を一つの感覚だけで受け取っているのではない
ということでした。
緑を見る「視覚」。
花や木の香りを感じる「嗅覚」。
鳥の声や葉の擦れる音を聞く「聴覚」。
木や芝生に触れる「触覚」。
そして、それぞれの感覚は独立しているのではなく、互いに影響し合います。
論文では、視覚と嗅覚、視覚と聴覚など複数の感覚による自然の知覚についても取り上げられ、それらが統合されて「心象風景」が構築される過程が重要なのではないかと考察されています。
私はこれを読んだとき、
「これは食べることも同じではないか」
と思いました。
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食べることほど「五感と記憶」が集まった行為はない
私たちは食べ物を、味だけで食べているわけではありません。
料理の色を見る。
湯気を見る。
香りを嗅ぐ。
箸で触れる。
口に入れたときの温度を感じる。
舌触りを感じる。
噛んだときの音を聞く。
そして、味わう。
さらにそこには、食器やテーブル、周囲の声、季節、場所などもあります。
そして何より、
「誰と食べたか」
があります。
お母さんが作ってくれた煮物。
お正月に家族で囲んだお雑煮。
夏祭りで食べたもの。
子どもと一緒に食べた誕生日のケーキ。
夫婦で毎朝飲んでいたお味噌汁。
それらは単なる「味の記憶」ではありません。
香り、音、景色、触感、そしてそのときに感じていた嬉しさや安心感まで含めて、その人の中に残っているのではないでしょうか。
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名前を忘れても、「嬉しかった」は残っているかもしれない
訪問歯科では、認知症の患者さんにもたくさん出会います。
認知症が進むにつれて、食事への関心が薄れていく方もいらっしゃいます。
目の前に食事を置いても手を伸ばさない。
「食べましょう」と声をかけても、なかなか口を開けてくださらない。
そのような姿を見ると、
「食欲がない」
「食べる意欲が低下している」
と捉えたくなります。
もちろん、本当に体調や病気、口腔機能、嚥下機能などが原因で食べられない場合もありますから、それらをきちんと評価することはとても大切です。
でも、その一方で私は考えます。
食べるための“きっかけ”が、まだその人に届いていないだけではないだろうか。
料理の名前を思い出せなくても、
「懐かしい」
「好きだった」
「嬉しかった」
という感覚まで、すべて失われているとは限りません。
目の前に現れた食べ物の色。
ふわっと漂ってきた香り。
口に入れた瞬間の温度。
噛んだときの感触。
それらが、その人の中に眠っている何かにつながることがあるのではないでしょうか。
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盆踊りのおじいさんと、食べること
そこで私は、あの盆踊りの動画を思い出します。
普段は杖をついて歩いている人が、音楽が流れると見事なステップで踊る。
頭で、
「右足を出して」
「次は左足を出して」
と考えながら踊っているわけではないのでしょう。
長年繰り返してきた音楽と身体の動きが、その人の中の記憶と結びついている。
だから音楽がきっかけとなって、身体が動き始めたのかもしれません。
だとすれば、食べることにも同じような可能性があるのではないでしょうか。
「これは○○という料理です」
と説明しても反応しなかった人が、
その香りを嗅いだ瞬間に表情を変える。
口元へ運ばれたとき、自然に口を開く。
一口食べたら、もう一口を欲しがる。
そんなことがあっても、不思議ではないと思うのです。
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「食べない人」ではなく、「食べたいものに出会えていない人」かもしれない
もちろん、すべての人に当てはまる話ではありません。
認知症だけでなく、薬剤、全身状態、口腔疾患、咀嚼・嚥下機能、覚醒状態など、食べられなくなる原因はさまざまです。
ですから「好きなものを出せば食べられる」という単純な話にはできません。
それでも、
「この人は食べる意欲がない」
と決めてしまう前に、
「この人が食べたいと思えるものは何だろう」
と考えてみる余地はあると思っています。
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「何を食べられるか」だけでなく「何を食べてきたか」
そのために、とても大切な情報を持っているのがご家族です。
「昔、何が好きでしたか?」
「よく作っていた料理は何ですか?」
「お正月には何を食べていましたか?」
「お酒のおつまみは何が好きでしたか?」
「甘いものなら何を喜びましたか?」
こうした情報は、単なる「好き嫌い」の情報ではありません。
私は、
その人の人生にアクセスするための情報
なのではないかと思っています。
医療や介護では、
「何が食べられるか」
を考えることはとても重要です。
しかし、それと同じくらい、
「この人は、これまで何を食べて生きてきたのか」
を知ることも大切なのではないでしょうか。
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安全に食べることと、幸せに食べること
介護の現場には現実があります。
限られた人数で、多くの方の食事を支えなければなりません。
誤嚥や窒息を防がなければならない。
必要な栄養や水分も摂っていただかなければならない。
食形態にも配慮しなければならない。
一人ひとりの人生を聞き、その人の思い出の料理を毎回用意する。
そんなことが簡単にできないことも、訪問の現場にいるからこそよく分かります。
だから私は、今の介護を否定したいわけではありません。
むしろ、今できていることに、
ほんの少しだけ「その人の記憶」という視点を加えられないだろうか
と思っています。
「この方、昔は何が好きだったんですかね」
そんな一言からでもいい。
ご家族に聞いてみる。
昔の写真を見てみる。
季節の食べ物を話題にしてみる。
それだけでも、食事の見方が少し変わるかもしれません。
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食べ物は、その人の人生を呼び起こすものかもしれない
今回の「緑と知覚」の論文では、人工物の多い都市環境が緊張を生みやすい一方、そこに緑が存在することで不要な脳活動が軽減され、ストレス軽減につながる可能性が述べられています。
さらに著者は、緑による癒しを視覚や香りだけの問題ではなく、自然の中に滞在するという「空間体験」としても捉えています。
私は「食」も、同じように考えてみたいと思います。
食べ物とは、栄養素の集合体ではありません。
食べることとは、咀嚼して嚥下するという身体機能だけでもありません。
食べ物は、その人が生きてきた時間と結びついている。
だからこそ、食べ物を見たり、香りを嗅いだり、口にしたりすることで、言葉では取り出せなくなった記憶に触れることがあるのかもしれません。
そしてその記憶が、
「食べたい」
という気持ちにつながる可能性がある。
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「食べさせる」から「食べたいを探す」へ
私は、これからの食支援が少しずつ、
「どうすれば食べさせられるか」から
「どうすれば、この人の“食べたい”に出会えるか」へ
変わっていったらいいなと思っています。
それは、とても時間のかかることだと思います。
すぐに介護の仕組みが変わるわけでもありません。
それでも、
「この人は何を食べたら嬉しいだろう」
と考える人が一人増える。
そして、その人が隣の誰かに伝える。
そんな小さな積み重ねなら、今日からでも始められるのではないでしょうか。
盆踊りの音楽が、杖をついて歩く人の身体から華麗なステップを引き出したように、
一杯のお味噌汁の香りが、
一口のお饅頭の甘さが、
旬の果物の色が、
その人の中に眠っている「幸せだった時間」を呼び起こすかもしれない。
そして、その記憶がもう一度、
「食べたい」
につながるかもしれない。
私はそんな「食べる幸せ」を、これからも訪問の現場で探しながら、一つひとつ伝えていきたいと思っています。
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