前回のブログでは、くも膜下出血を発症してから約10年間、歯も入れ歯もないまま過ごされてきた左半身麻痺の患者さんのお話をしました。
今回は、その患者さんにどのような考えで入れ歯を作り始めたのかをお話しします。
まず最初に私が決断したのは、「上下の入れ歯を作らない」ということでした。
作るのは上の入れ歯だけ。
多くの方は「入れ歯は食べるためのもの」と考えられると思います。
もちろん、それは間違いではありません。
しかし私が今回目指したのは、「食べるための入れ歯」ではなく、「リハビリとしての義歯」でした。
食べるという動作は、歯があればできるものではありません。
舌、唇、頬、顎、のど、首、そして呼吸まで、多くの筋肉が互いに協調して初めて成立します。
入れ歯も同じです。
作った瞬間から使いこなせるものではなく、身体が少しずつ覚えていく必要があります。
義足を装着して歩けるようになるためにリハビリが必要なように、入れ歯にもリハビリが必要なのです。
もちろん、お口の体操や舌のトレーニングといった口腔リハビリも重要です。
しかし、それ以上に効果的なのは、実際の生活の中で「入れ歯を入れて過ごすこと」だと私は考えています。
リハビリテーションの分野でも、実際の生活動作に近い課題を繰り返す「課題指向型訓練(Task-Oriented Training)」が、機能回復に有効であることが報告されています(Kwakkelら, 2015)。
つまり、「入れ歯を使う練習」をするよりも、「入れ歯を入れて生活すること」そのものが、大切なリハビリになるのです。
さらに今回は、下の歯が一本もありません。
上の入れ歯を安定させるために必要な「咬み合わせ」が存在しないため、その不足を補うように舌が自然と働くことになります。
舌が入れ歯を感じ、位置を探し、支えようとする。
その過程自体が、舌の機能訓練にもつながるのではないか。
そんな期待もありました。
とはいえ、この患者さんには左半身麻痺があります。
正直に言えば、大きな期待を抱いていたわけではありません。
だからこそ、患者さんとご家族には、できることと難しいこと、期待できることと期待できないことを、最初にしっかりお伝えしました。
それでも患者さんは、
「入れ歯を作ってほしい。」
そう希望されました。
その言葉を聞いた時、私の気持ちは一つでした。
「その思いに応えたい。」
まずは作ってみよう。
結果はその先で考えればいい。
そう思って診療を始めました。
ところが、ここでまた新たな壁にぶつかります。
通常、総入れ歯は型取りを行った後、「ロウ堤(ろうてい)」という装置を使って咬み合わせの位置や歯並びを決めていきます。
しかし今回は、下の歯がないうえに作るのは上だけ。
しかも左半身麻痺があります。
どこを基準に歯並びを決めればよいのか。
ここでも、私は大いに悩むことになりました。
この続きは、次回お話ししたいと思います。
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