訪問歯科を始めてから、たくさんの患者さんとの出会いがありました。

その一人ひとりが、私に歯科医師として大切なことを教えてくださいました。

今日は、その中でも私に「口の持つ力」を最初に教えてくださった患者さんのお話です。

そのご家族は、ご主人と奥様、お嬢さんの3人暮らしでした。

私たちはご主人のリハビリや口腔ケアで定期的に訪問していました。

いつ訪問しても、奥様は少し離れた場所から、ご主人のリハビリや治療を優しい微笑みで見守っておられました。

そして、お嬢さんもまた、ご両親の介護を一人で担っているとは思えないほど、いつも明るく穏やかでした。

訪問のたびに、ご家族全体が温かい空気に包まれていて、私たち医療者の方が幸せな気持ちになるようなご家庭でした。

ご主人がリハビリをしていると、

「君もやるといいよ。」

そう声を掛けられることがありました。

すると奥様は、少し頬を膨らませたり、首を動かしたり。

ご主人の真似を少しだけされます。

でも最後は、

「私はいいのよ。」

そう笑って、ご自身の治療はいつも遠慮されていました。

ところがある日、お嬢さんから突然こんなお話がありました。

「先生、母が入れ歯を作ってほしいと言っているんです。」

驚きました。

奥様は85歳。

歯は1本もない無歯顎で、10年前にくも膜下出血を発症して以来、義歯を使っておられませんでした。

左半身には麻痺があり、ご自身で姿勢を保つことも簡単ではありません。

義歯を作ることは、決して簡単なことではありませんでした。

それでも私たちは、ある「奇跡」を思い出し、挑戦してみようと思いました。

なぜ「2回目」の奇跡なのか。

それは、この奥様が今こうして私たちの前で穏やかに笑っておられること自体が、すでに一つ目の奇跡だったからです。

くも膜下出血を起こされた奥様は、意識が戻らないまま半年が経過したそうです。

栄養は静脈からのみ。

ご家族は長い時間悩み、静かに最期を迎えていただこうと決断されました。

そのとき、お嬢さんは、

「最後に、大好きだったブルーベリージャムを少しだけ。」

そう思い、小さなスプーンでほんの少し口に運ばれたそうです。

すると…

奥様が、

「ゴクン」

と飲み込まれた。

そして、その後、意識が戻ったというのです。

当時、臨床経験15年ほどだった私には、にわかには信じられないお話でした。

けれど、このご家族が作り話や嘘を話されるような方々ではないことを、私は十分知っていました。

だから私は、そのお話を素直に信じることができました。

そして今なら、あの出来事がなぜ起こり得たのかを、以前より理解できます。

口は、単に食べるための器官ではありません。

味わうこと。

香りを感じること。

飲み込むこと。

そして「食べたい」という気持ち。

口への刺激は、脳を目覚めさせ、心を動かし、体全体にさまざまな影響を与える可能性を持っています。

もちろん、すべての方に同じことが起こるわけではありません。

しかし、私はこのご家族との出会いによって、口が持つポテンシャルは、私たちが思っている以上に大きいのだということを教えていただきました。

私が今でも歯科医師として感謝しながら仕事を続けられているのは、この出来事を思い出すたびに初心へ帰ることができるからなのだと思います。

そして、このお話には、もう一つの奇跡があります。

私たちが挑戦した「2回目の奇跡」。

そのお話は、また次回のブログでお伝えしたいと思います。

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